わざわざ湯治場へ行く理由を、あらためて考えてみる

■わざわざ湯治場へ行く理由を、あらためて考えてみる

気づけば、私たちの生活はすっかり“家の中で完結する”ようになりました。
2019年以降のパンデミックをきっかけに、デジタル化とリモート化が一気に進み、
買い物も、仕事も、娯楽も、ほとんど自宅で済んでしまう。
我が家でも、生鮮食品以外はほぼ通販。
気づけば「ポチポチ」するだけで生活が回るようになりました。
便利すぎて、もはや笑ってしまうほどです。
そんな時代になると、ふと考えるんです。
「じゃあ、温泉ってどうなるんだろう」
温泉の成分は科学的に分析されていて、
入浴剤やパック詰めで自宅に届けることもできます。
理論上は“同じ成分”を家のお風呂に入れることもできる。
でも、それで湯治と同じ体験になるかというと、
どうしても「何かが違う」と感じてしまう。

 

■ 湯治は“成分”ではなく“環境”の体験

湯治場へ行くと、まず空気が違います。
道中の景色、風の匂い、旅館の畳の感触、湯気の立ち方、
その土地の水の味、川の音、夜の静けさ。
こうしたものが全部ひっくるまって、
身体が勝手に「休むモード」に切り替わっていく。
自宅で「よし、今日は休むぞ」と意気込んでも、
家事や仕事の気配がどうしても残っていて、
完全にスイッチが切れないことが多い。
でも湯治場では、
自分の意志とは関係なく、
環境のほうが身体を休ませてくれる。
これが、湯治の本質なんじゃないかと思っています。

 

■ 人間は“反応する生き物”である

私たちの身体は、
見る・聞く・嗅ぐ・触る・味わう、
そのすべてに対して勝手に反応します。
暑い、寒い、柔らかい、固い、甘い、苦い、心地よい、ざわつく。
こうした反応は、意識でコントロールできるものではありません。
むしろ、
反応してしまうからこそ、生きている
と言えるのかもしれません。
湯治場は、この“反応する身体”を取り戻す場所です。
デジタル化が進むほど、
私たちは画面越しの世界に慣れ、
匂いも温度もない情報に囲まれ、
身体の反応が鈍くなっていく。
だからこそ、
湯治場のような“環境そのものが身体を揺り動かす場所”が
ますます価値を持つようになるのだと思います。

 

■ 湯治は「環境に身を委ねる」という選択

意志の力で休もうとするのではなく、
環境に身を置くことで、身体が勝手に整っていく。
湯治とは、「反応する身体」を取り戻す、ことなのかもしれません。
自宅でどれだけ便利に過ごせても、
湯治場でしか得られない休息があります。
自然、食事、部屋、湯、そして人。
それらが複雑に絡み合って、
「なんだかよく休めた」という感覚につながる。
その体験こそが、わざわざ湯治場へ足を運ぶ意味なのだと思います。