もくじ
前を向いていこう、と、仰るが。
今日も今日とて、屁理屈がましい若旦那(若くない)です。
よく、人を励ましたり、鼓舞したりするシチュエーションにおいて「前を向いていこう」「前向きに考えよう」と仰る方がおられます。
ニュアンスとしては、一般論として「ポジティブ」だと定義されている方向性に向かって、一歩でも半歩でもエネルギーを割いていきましょう、という趣旨のことが多いようです。
例えば、少年誌のヒーロー系やスポーツ漫画などでは、これはもう「鉄板」と言えるでしょう。
「あきらめるな」 「前を向け」 「限界を自分で決めるな」……などなど。
よーく、わかります。痛いくらいに分かります。 なんと言っても私自身、人生の半分以上がゴリゴリの体育会系。学生時代は白球を追いかけ野球部まっしぐら。社会人になって就社した先も、これまたゴリゴリの営業会社。
そんなポジティブの濁流の中で、約25年間生きてきました。 結果として、今でも反射的に浮かび上がる思考の根底には、これらの方向性が色濃く反映されています。
「前向き」というツールの副作用
これはこれで、良いのです。 人生のある期間、ある時点、ある特定の環境下において、「前を向く」が有用な場面というのは、多々あります。それは、まごうことなき事実だと思っています。
ただ、40歳を目前にして、ふと思うのです。
ある期間、ある時点、ある環境で効果を発揮したその「前向き」というツールも、別の期間、別の時点、別の環境では、全く効果を発揮しないどころか、自分を悪い方向性へ向かわせることもあるのではないか、と。
世の中に出回る、偉人の名言や有名人の至言は、あたかも「全人類共通の真理」のように受け取られがちです。 ※たぶん、私の主観です。というか、私がそうでした。
だがしかし。
よくよく、本当によくよく、しつこいくらいに考えてみると、それは「ある特定の能力を持った人が、ある特定の時期に、ある特定の極めて特殊な環境の上で、成立した、極めて稀な成功例」であることが多い。と、私は思うのです。 ※これも、あくまで私の主観です。
偉人の言葉は「エンターテインメント」?
そもそも、なぜそのような言葉が記録に残るのかといえば、それは発生確率が低い、珍しい現象だからだと思うのです。
「普通」=「よくあること」。これに人は気も留めません。 記憶に残る、印象に残る、そして後世に語り継がれるのは、それが相対的に「珍しく、希少で、非日常的な体験」だからです。だからこそ、人はそこにエンターテインメント性を見出し、記録に留めていく。
(余談ですが、地球に生命が誕生したことは天文学的確率の奇跡らしいのですが、私たちはシレっと当たり前に生活しております。矛盾……)
話がそれました。 そう、珍しいんです。希少なんです。 ほとんどの場合、現実はそのようには、ならないんです。
極論を言えば、宝くじの高額当選者に「当たるまで買い続ければ、必ず当たるよ、諦めるな!」と助言されているようなものです。普通はそうなりません。
注: 決して、偉人の皆様を貶めているわけではありません。特殊な能力、努力、タイミング、環境、それら全てを集約して結果を出せる、人類史上極めて優秀な人々だったからこそ、偉業が成し遂げられたのだと、心底尊敬しております。
ですから、偉人の言葉は「素晴らしいエンターテインメント」として、少し距離を置いて眺めるくらいが丁度いい。美しく、耳ざわりの良い言葉も、一種の鑑賞用だと思った方が、心は健やかでいられます。
正解なんて、最初から存在しない
回りくどくなりましたが、何が言いたいかというと。
「幸せになるための方向性は、そちら側だけではない。それが唯一の正解ではない。そもそも正解など最初から存在しない……のかもしれない」
ということです。※これも私の独断と偏見です。
タイトルに戻ります。 進むべき方向は、決して「前」だけではありません。 後ろへ下がったっていいし、右へ逸れてもいい。左へ逃げてもいいし、斜めに進んだって、あるいは上下へ飛び出したって良いはずです。
ちなみに、視点を広げて宇宙空間に出てしまえば、そもそも前後左右上下という概念すら消失します。相対的に、「自分」という基準を設けた際に、初めて便宜上それらを定義できるだけ。
それだって、「あなたから見て」前であるだけで、他の誰かから見れば、それは後ろかもしれないし、右かもしれない。
つまり、ある人にとって「前向き」が救いであっても、別の誰かにとっては、それはただの「迷走」や「無理」でしかない場合もある。
だからこそ、方向性は前後、左右、上下、はたまた**「その場にジタバタせず留まる」**ことだって、立派で賢明な選択肢なのだと思います。
最後に……
何が言いたいかというと(2回目。しつこくてすみません)。
健やかに生きる上で、「柔軟であること」は、とても大切だと思うのです。 ……もっとも、この「柔軟である」という言葉自体が、なんとも抽象的で、曖昧で、捉えどころのない、どこか無責任な言葉なのですが。
逆説的に言えば、この私の独断と偏見と屁理屈めいた考え方だって、ある人にとっては有用かもしれませんが、別の人にとっては全くの無用、あるいは有害、時間の無駄かもしれません。
書いていて、ふと我に返りました。 「じゃあ、この文章をここまで読んだ意味、一体どこにあるんだ?」と。(笑)
いえ、いいんです。 たまたま、何かの間違いでこの文章を目にしたお一人が、
「まあ、そんな屁理屈をこねる宿屋の主人も、世の中にはいるか」
と、奇跡的にほんの少しばかり、心が「緩む」ような錯覚を覚えていたとしたら、それで良しといたします。

